久保明教『「家庭料理」という戦場』
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久保明教『「家庭料理」という戦場』

¥2,200 税込

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【書評等掲載】 2020-07-10「クロワッサン 7月25日号」評者:小川さやか(文化人類学者) 2020-05-7「ディスカバー・ジャパン 6月号」評者:森暁子(書店員) 2020-04-16「週刊新潮 4月23日号」評者:倉本さおり(書評家) 2020-03-15「信濃毎日新聞 朝刊」評者:土屋淳(料理研究家) 2020-02-16「東京新聞/中日新聞 朝刊」評者:栗原裕一郎(評論家) 2020-02-08「日本経済新聞 朝刊」 2020-02-07「週刊エコノミスト 2月18日号」 【紹介】 作って、食べて、考える。 「私、結婚したら毎日違う料理を作るんだ!」ある先輩が発したこの言葉に誘われるように、文化人類学者は「家庭料理」というフィールドにおもむく。 数々のレシピをもとに調理と実食を繰り返し、生活と学問を往復しながら家庭料理をめぐる諸関係の変遷を追跡する。 心を込めた手作りが大事なのか、手軽なアイデア料理が素晴らしいのか、家族がそれぞれ好きに食べる個食はなぜ非難されるのか、市販の合わせ調味料は「我が家の味」を壊すのか、レシピのデータベース化は何をもたらしたのか、私たちは暮らしを自由にデザインできるのか? 家庭料理をめぐる様々な問いと倫理が浮かびあがり、それらが互いに対立しながら部分的につながっていく。 日々の料理を作り食べること、それは暮らしという足下から私たち自身を考えることにつながっている。 【目次】 はじめに――毎日違う料理を作るんだ! 第一章 わがままなワンタンとハッシュドブラウンポテト  暮らし、見えない足下/美味しい時短/消費社会下の家庭料理/ゆとりの天才/静かな戦い  実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負(前半戦)   第1戦 昼の副菜「キューカンバーサラダ×自家製ピクルスミックス」   第2戦 昼の主菜「じゃが芋スパゲティ×スパゲッティミートソース」 第二章 カレーライスでもいい。ただしそれはインスタントではない  手作りと簡易化/村の味/毎日がごちそう/ねじれた継承/贈与の拠点  実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負(後半戦)   第3戦 夜の副菜「大根たらこ煮×じゃがいものニョッキ、レンジトマトソース」   第4戦 夜の主菜「食べるとロールキャベツ×煮込みれんこんバーグ」 第三章 なぜガーリックはにんにくではないのか?  正しい料理/脱構築の末路/欲求を知り、満たす/にんにくではダメなんです/「我が家の味」のデータベース/動物的消費の彼方/ホワイトキューブのもそもそメシ  実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負(最終戦)   第5戦 夜の汁物「なすとそうめんの汁×かぼちゃの冷たいスープ」   レシピ五番勝負を終えて おわりに――暮らしはデザインできるか? 【はじめに】 *以下は、本書「はじめに――毎日違う料理を作るんだ!」の草稿です。書籍とは細部が異なる場合があります。  一五年ほど前のある日の晩、私は大学院ゼミの飲み会に参加していた。結婚を機に大学院をやめることになった先輩の送迎会だった。「私、結婚したら毎日違う料理を作るんだ!」と彼女は嬉しそうに宣言した。好奇心旺盛で多趣味多芸な人であったから、おそらく先輩は実際に毎日違う料理を作ろうとしたのだろう。  彼女の計画はとても魅力的に思えた。だが、毎日まったく違う料理を作り、食べる暮らしとはどのようなものだろうか。美味しい料理ができたらまた作りたくならないか。昨晩のカレーを朝食に供したらダメだろうか。冷蔵庫に賞味期限まぢかの豆腐を見つけて「今日も冷奴でいいか」とはならないのか。それに、家庭料理には似たような品目が少なくない。ミートボールとハンバーグ、ビーフストロガノフとハヤシライスはまったく別の料理ではないし、細かいアレンジも可能だ。ビーフストロガノフを作ろうとして高い牛肉しか売っていなければ安い豚肉を使えばいい。生活とはそんなものではないだろうか?  先輩の宣言を私がいつまでも忘れられないのは、そこに「暮らしは自由にデザインできる」という新しい発想の輝かしさと苦しさを嗅ぎつけたからだと思う。私自身もまた、学問に携わってきたこの十数年のあいだ、週の半分以上はスーパーに通って夕食を作り、献立に悩んだり、弁当のおかずに苦慮してきた。料理研究家の本やレシピ投稿サイトを調べて目先の変わった料理を作ることは楽しいし、「美味しい」と言われれば嬉しい。だが、毎日まったく違う料理を作ることはなかった。  近所のスーパーで野菜売り場から入りつつ夕飯の献立を考えるとき、私は微かな喜びと確かな苦痛を感じる。さぁ、今日も楽しい料理の時間だ。売り場にはまだ試したことのない多様な商品が並んでいる。スマホを使えば膨大なレシピを検索できる。頑張ればなんでも作れるし、きっと新しい味と出会えるだろう。  だがそれは、限られた予算と時間と疲れた身体が許すかぎりでしかない。目先の変わったレシピは親しい人の口にあわないかもしれない。定番の一品はそろそろ飽きられるかもしれない。生ごみの日はもう過ぎたから骨が残る魚は買いにくい。レタスかキャベツが残っていた気がするが、あれはもう腐っていないか……。あぁ、もう疲れた、今夜は居酒屋にでも行こうか。だけど最近外食が続いたから家で食べたいしなぁ……。  自らの些細な選択が、暮らしに緩慢な亀裂を刻んでいく。やっぱり毎日ちがう料理を作るなんて無茶な話だ。暮らしとは同じことの繰り返しを丁寧にやりくりしていくことではないのか。だが、それもまた膨大な選択肢のなかで特定の「ルーティン」を選びとることでしかないように思える。微かな希望と絶望を伴って家庭料理が作られ、食べられる場。それは、自らの一挙一動が、極めて間接的な仕方であれ、生と死に関わる戦場である。  本書は、家庭料理をめぐる学問的な考察と日常的な経験を横断しながら綴られている。それは、一面において科学技術の人類学を専門とする筆者が身につけてきた学問的観点から一九六〇年代から二〇一〇年代に至る家庭料理の変遷を記述するものであるが、社会的・文化的背景を周到に配置することでそれを外側から客観的に分析しようとするものではない。本書における題材の選択や考察の切り口は、前述した筆者に固有の日常的経験によって規定されている。だが、それは一人の生活者としての経験に根ざした主観的な観察に研究者としての知識を添えた学術的エッセイでもない。  本書執筆に先立って、私は一九六〇~二〇一〇年代に刊行された様々なレシピ本を収集し、実際にそれらを参考にしながら多くの料理を作っている。世界各国のマイナーな料理を扱う近年のレシピ本よりも、自分が生まれる前に刊行された料理書のほうが新奇な味に出会うことが多かった。例えば、『江上トミの材料別おかずの手本』(一九七四年、世界文化社)に収められた「小あじのムニエル」は、茹でて裏ごししたジャガイモにバターで炒めた玉ねぎとパセリを混ぜ、生卵を加えて四角に成型してから、背開きにして中骨をとり小麦粉をまぶした小あじに挟んでバターで焼き、茹でたシェルマカロニと輪切りトマトをバターで焼いて添えた料理である。「小あじ、ジャガイモ、トマト」という入手しやすい食材を用いながらもバターを多用した重厚な洋風魚料理であり、焼き付けたトマトのすっぱさとシェルマカロニのもちゃもちゃした触感があわさって大変に美味しい一品となっている。  しかしながら、その「美味しさ」は二〇一〇年代末における筆者の暮らしの中では極めてすわりの悪いものでもあった。手間も時間もかかるわりに見た目は地味だし、副菜や汁物をどうあわせてよいかも分からない。「小あじのムニエル」が御馳走でありえた一九七〇年代前半の状況(高速道路やスーパーによる流通の発展、洋食への憧れ、魚屋の全国的増加など)から遠く離れた現代の食卓において、その味わいはどこか的外れに感じられてしまう。  「小あじのムニエル」を現代風にアレンジすれば、小あじを骨のないサーモンに替え、ジャガイモはレンジで加熱して裏ごしは省き、焼きトマトとシェルマカロニの代わりにミニトマトとベイビーリーフを添え、粒マスタードにマヨネーズを和えたソースをかけた「サーモンのポテトサンド焼き」になるかもしれない(一度試したが調理も簡単で美味しかった)。  だが、この料理は江上レシピのまま何度か食卓に上った。スパイスカレーのような新奇な題材を扱っていても現代に即した調整が施されたレシピと比べて、江上トミの料理には特異な味わいがあり、筆者の暮らしはその味わいを通じて慣れ親しんだものとは異なる諸要素と結びつくことになる。  暮らしも研究も、諸々の要素と多様な関係を結ぶことによって進行する。文献やレシピ本や調理を通じて、筆者は家庭料理をめぐる諸関係の網の目(ネットワーク)をたどってきた。  研究者としても生活者としても、私はそのネットワークに内在しており、外側からそれを客観的に分析することはできない。たしかに、様々な要素と新たな関係をむすぶことを通じてそれらの諸関係を外側から捉える認識は生じる。だが、それは私=観察者が内在するネットワークの運動が産出する一時的な把握に他ならない。新たな関係をたどることで競合する外在的認識が浮上し、それらの齟齬が新たな要素との関係を導く。私が親しんできた現代の家庭料理レシピは多種多様に思われたが、「小あじのムニエル」の特異な味わいに触れることでそれらの均質性が見えてくる。「サーモンのポテトサンド焼き」は簡単で美味しいが、味の広がりは限定されている。その認識は、さらに、細やかな下ごしらえ(小あじの中骨をとって背開きにし、ジャガイモを裏ごしするといった作業)が「料理を美味しくするひと手間」とはされ難くなってきた家庭料理をめぐる諸関係の歴史的変容へ観察者を誘っていく。  このように、本書の記述は、客観的観察や主観的経験に基づくものではなく、関係論的に構成されている。ネットワークに内在する観察者が様々な要素と結びつくことによって、そこで生じる外在的な認識が共立し共振しながら変容し、新たな関係性の組み替えが喚起される。学問的論述でもエッセイでもなく、絶えず両者の狭間を動き続けるような本書の記述に対して、困惑や違和感を覚える読者もいるだろう。そもそも家庭料理をめぐる経験や認識は人によって極めて多様であり、それは「これが一般的な家庭料理だ」という認識自体の差異を伴っている。筆者がたどる諸関係が、読者になじみのある諸関係と完全に一致することはないだろう。取り上げる事柄が断片的だと思われるかもしれないし、記述を通じて浮かびあがる価値判断のいくつかは受け入れがたいと思われるかもしれない。  だが、本書は家庭料理という事象をそのような異議や議論を呼ぶものとして提示するために書かれている。各章のあいだに置かれた「実食! 小林カツ代×栗原はるみレシピ対決五番勝負」もまた、具体的なレシピと筆者や友人たちのコメントを通じて――もちろん共感できる箇所も違和を感じる箇所もあるだろうが――本文の記述と読者の経験を関係づけてもらうためのものである。記述を通じて諸関係が組み替えられ、相異なる価値や倫理が浮上し共立し互いに変容していく。そうしたプロセスを通じて、料理や暮らしや学問をめぐる思考と実践を再考し、再構成していく媒介として本書は読者の前に提示されることになる(前著『ブルーノ・ラトゥールの取説』の読者には意外と思われるだろうが、本書は、同書で構想した方法論、とりわけ終盤で素描した「汎構築主義」をめぐる論点を具体的事例に即して展開したものである)。  「毎日違う料理を作るんだ!」という先輩の宣言から一五年ほど経過した現在、「暮らしは自由にデザインできる」という発想はより一般的になったように思われる。「自己分析」や「拡張現実」や「ライフハック」といった言葉の広まりは、「自己」や「現実」や「生活」が所与の条件(出身地や階級や社会構造など)によって規定されるものとはみなされなくなってきたことを示している。もちろん、そうした条件がまったく影響力を失ったわけではないが、それらを対象化して分析し拡張し改変することによって、私たちはより自由に自分らしく生きていくことができる。こうした発想が普及し称揚され規範化されるにつれて、「生活」は逃れえない必要性の源泉ではなく、自由なデザインの対象として把握されるようになる。  その結果、生活は学問的分析へと接近する。近年ではインターネットやスマートフォンを通じて専門的知識へのアクセスがより簡易化され、客観的な事実だけでなく学問的な視角自体を生活に導入することが容易になってきた。家事の見える化、鍵付きアカウントによる同調圧力への抵抗、消費社会批判としてのミニマリスト的消費。暮らしを対象化しデザインしていく実践において、生活を分析する学問的視角自体が生活の一部に組み込まれる。社会を外側から観察できるはずの社会科学的知は、それ自体が社会の内部に浸透することによってその俯瞰性を失っていく。だが、外在的な知もまた内在的な諸関係の暫定的産出物だと考えれば、知の再帰性を通じた俯瞰性の喪失は諸関係の内在的な組み替えの可能性へと変換される。家庭料理をめぐる諸関係の変遷をたどることによって異なる認識が共立し、それらの対立や摩擦を伴う相互作用が新たな諸関係の組み替えを喚起していく。その運動の只中において、自らの感覚や思考や営為を捉え直し、再構成してもらう踏み台となるために本書は書かれている。  では、記述をはじめよう。 【担当編集者から】 前著『ブルーノ・ラトゥールの取説』(月曜者、2019)で構想した方法論を「家庭料理」という身近で具体的な事柄に即して展開しながら、「暮らしをデザインすること」について問います。 また、江上トミ、土井勝、小林カツ代、栗原はるみ、土井善晴ら著名な料理研究家の系譜も辿りながら、家庭料理60年の栄光と挫折をあぶり出します。 学術論文とエッセイのあいだのような文体と構成になっています。 【著者プロフィール】 久保明教(クボアキノリ) 一橋大学社会学研究科准教授。1978年生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位取得退学。博士(人間科学)。専攻は、文化/社会人類学。主な著書に、『ブルーノ・ラトゥールの取説ーーアクターネットワーク論から存在様態探求へ』(月曜社、2019年)、『機械カニバリズムーー人類なきあとの人類学へ』(講談社、2018年)、『ロボットの人類学ーー二〇世紀日本の機械と人間』(世界思想社、2015年)など。